TOPIC北川フラム2021.05.25

アートフロントギャラリーのスタートアップ時代
「ゆりあ・ぺむぺる工房」とは何だったか

1971年、アートフロントギャラリーの前身となる「ゆりあ・ぺむぺる工房」が東京芸術大学の学生・卒業生によって発足して、今年50周年を迎えます。それはいかなる“工房”だったのか?アートフロントギャラリーの創業期ともいえる「ゆりあ・ぺむぺる時代」を、北川フラムと共に創業し、現在社長をつとめる奥野惠が語ります。

――ゆりあ・ぺむぺる結成まで

 私が芸大に入学した1969年は、大学紛争の真っただ中。社会のことをシャットアウトして過ごした一年間の浪人時代が終わって、入学した途端、一気に世の中のことが入ってきたわけで、何もかもが新鮮でした。北川フラムを知ったのは入学して間もなくのこと。私よりも一年前に入学した彼は、立て看の前でしょっちゅうアジっていました。ボソボソっとつぶやくような言葉が、街頭で聞く党派のアジテーションとは違って、心に沁みました。ビラもバラバラに個人個人がつくっていましたが、フラムさんのビラは詩のようで、心にすっと入ってきて新鮮でした。学内に彼を知らない人はいませんでした。

 芸大では1年生の時は音校(音楽学部)に“油1年小屋”と呼ばれるアトリエがあって、そこが学生たちの“巣窟”になっていました。すでにところどころでバリケードが築かれていましたが、自由に出入りでき、1年生の時は、よく遊んだし、絵も描き、いわゆる大学生活を満喫していました。でも、次第にいろいろなことを考え、大学を変えていかないといけないと思うようになって、私自身は前に出るタイプではありませんでしたが、授業を討論会の場に変えるような活動を10人くらいの友人たちと始めました。それから半年ほどして、フラムさんたちのグループに合流し、一緒に活動するようになったのです。

デモの合間に、勉強会をよくやっていました。まるで朝練のように。マルクス、エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』も読みました。大地の芸術祭の「人間は自然に内包される」という理念はその中の一節です。当時勉強したことが、まさに私たちの血となり肉となっているのです。  

――渋谷・桜丘に拠点をもつ

 2年生になって芸大がバリケード封鎖され、そこからは闘争に明け暮れる日々でした。1971年1月、バリケードが壊されるとそこから追い出された私たちは教室には行かず、大浦教室(大浦食堂)にたむろするようになりました。その中には、作曲科の坂本龍一さんや堤政雄さんもいました。よく二人に音校のピアノを即興で弾いてもらいました。

行き場がなくなってきた頃、渋谷のジャズ喫茶BYGの壁画の仕事を私たちが請け負うことになりました。先輩の紹介で内装の仕事もやるようになり、その縁で渋谷・桜丘町のビルの2LDKを安く買い、そこが私たちの拠点になりました。買ったはいいが、毎月ローンを返さなくてはいけない。みんな貧乏で稼がなくてはいけない。仕事を請けるためにはチームに名前がなくてはいけない。そこから「ゆりあ・ぺむぺる工房」は出発したのです。総勢17名。当初は「ゆりあ・ぺむぺる技芸学院」と言っていました。
「ゆりあ・ぺむぺる」というのは宮沢賢治が詩「小岩井農場パート9」の中で、中世白亜紀のひとつひとつの化石につけた名前で、フラムさんの恩師・水野敬三郎さんの奥様で詩人の水野るり子さんが私たちのことをそう呼んでくださったことからつけられました。「技芸学院」というのは運慶の工房の名前です。そこは、学校に行けなくなった私たちの<学校>であり、食べていくための<生業>の場でもありました。創立日となっている1971年6月15日は沖縄反戦のデモで仲間が逮捕された日です。

――ゆりあ・ぺむぺるの活動

 クロッキー教室やこども絵画教室、内装業や本の販売をしたり、芝居の裏方、舞台美術やコンサートの手伝い、切符売り、挿絵や装丁、壁画の仕事、学園祭やコンサートのポスター・チラシの制作、食べるためには何でもやりました。1971年からは山梨県韮崎市にある精神科の病院の壁画プロジェクトが始まり、私も参加しました。患者さんのためのホールをつくるということで、曼荼羅を壁面いっぱいに描こうとしたのですが、面相筆で描くものだから、なかなか進まない。8年間続きましたが、未完に終わりました。その一方で、デモや逮捕された仲間の救対(救援対策)も忙しかった。しかし世の中が落ち着いてくるとそうした活動も少なくなり、1974年、フラムさんも私も大学を卒業します。

「天界航路」挿絵・奥野惠

――アーティストとしてではなく、美術に関わる道を

 アーティストになろうという気持ちはすっかりなくなっていました。才能がある人というのは、入学した時点ですぐにわかるのですね。フラムさんはやはりすごい人で、言葉のセンスが抜群でした。アジテーションにしても、文章にしても。膨大な知識量、勉強量、闘争による経験に裏付けられていた。坂本龍一さんも学年は下でしたが、センスが光っていた。私自身は美術が生理的に好きかどうかずっと疑問に思っていて、アーテイストではものにならないと早くに自覚していました。でも、美術の面白さからは抜けたくないという願望はありました。面白いことをやりたい、モノをつくる現場にいたい、現在の思想の近くにいたい。それが今に続く原動力になっています。

――音楽から食まで、多彩な活動

 そうした思いは、フラムさんが持っていたものでした。今もそれはちっとも変っていません。彼はたくさんの根っこがある人ですが、そのすべてが等価にある。でもきっと一番心地よかったのが美術だったのではないでしょうか。美術が芯になって自分のさまざまな興味を集中できたのだと思います。

 ゆりあ・ぺむぺるの<生業>とは飢えたダボハゼ精神のたまものでした。そしてそれは多彩でした。コンサートの裏方など、音楽にいつも囲まれていたのは幸せなことでした。1978年には「傘屋」という食事処を桜丘で始め、85年まで続きました。

――6億円の借金時代

 1976年、桜丘にあった現代版画センターとのおつきあいが始まり、私たちも版画を扱わせてもらえるようになりました。渋谷のビルの近くに部屋を借り、そこを版画ギャラリーにして「アートフロント」と名付けました。その運営は私が中心になり、やがて自分たちでもエディションを出すようになり、田島征三さんや谷川晃一さんをはじめ、いろんな作家とのつきあいが始まります。

一方、フラムさんは音楽のプロデュースをしたり、いろんなことをしていました。1977年には「現代美術のパイオニア展」を企画運営し、船田玉樹さん、河口龍夫さんなど独自の作家を扱うようになっていきました。1980年には「現代企画室」を引き継ぐ形で出版の仕事も始まります。しかし1982年、プロデューサーとして関わっていた日本とメキシコの合作映画がメキシコの経済破綻で頓挫、巨額の借金を負います。「アートフロントギャラリー」を株式会社として設立したのは、その直後でした。1983年には現代企画室より月刊誌『ペンギン・クエスチョン?』を発行、16号で廃刊になると、先の借金とあわせて6億の負債を抱えます。

 1984年、代官山のヒルサイドテラスにギャラリーを開くことになり、私のベースはそちらに移りました。入居の際はオーナーの朝倉さんに本当にお世話になり、借金を抱える私たちをよく支えてくださったと感謝の言葉しかありません。川俣正さんの展覧会をきっかけに、現在BankART1929の代表をつとめる池田修さんにキュレーターをお願いすることになり、さらにいろいろな作家とのつきあいが始まりました。

そうした活動をしながら、絵を販売し、借金を返していったわけですが、時代がバブルに向かっていたことにも助けられました。借金時代、私の30代は“暗黒”でした。その間、肝に銘じたことは「多くを望まない。大切なことだけ、ひとつのことだけを全うしよう」ということ。その思いでこの時期を過ごしていました。また、それが今まで続けられている理由でもあります。

――恵まれた人脈

 ゆりあ・ぺむぺる時代のさまざまな仕事は、フラムさんの義兄である建築家・原広司さんのご縁に大きな恩恵を受けています。原さんのお施主だったグラフィックデザイナーの粟津潔さんは、私たちに文楽「桜姫東文章」のポスターと舞台美術を依頼してくださり、その後もいろいろとご一緒させていただきました。ガウディ展の全国巡回も粟津さんがきっかけです。

原さんが岩波書店の『講座』シリーズのメンバーだったことで、作曲家の一柳慧さんや武満徹さんとも知り合います。当時、岩波は文学・建築・音楽・美術など多様な分野の若く優秀な論客たちを集めてサロンのようなものをつくっていて、彼らは一緒に海に行ったりしていたそうですが、特に麻雀が好きでした。その麻雀大会でフラムさんが優勝して、可愛がられたという経緯があります。

――仕事も、遊びも、勉強もごちゃまぜの10

 1971年のゆりあ・ぺむぺるの発足からアートフロントギャラリーが設立される1982年までの約10年間は、自分たちがこの先どうなるかわからない、忙しかったけれど、よく遊び、遊びも勉強も仕事もごちゃまぜの時代でした。でも、断然、面白かった。

2013年から期せずして社長をやっていますが、給料も毎月もらえるし、生活も安定してきましたが、会社っぽい仕事が増えてきて、昔を懐かしく思います。1970年前後の若者たちは、政治も、美術も、音楽も、芝居も混沌としたカオスを生きることができました。今の若い人たちにできればそういう時代に行かせてあげたいと思ってしまいます。

 今、アートフロントギャラリーでも若い人たちを中心に勉強会や読書会が開かれていますが、それはいいことで、いろんな本を読んでほしいなと思います。

――アートの裏方として

 私たちはアーティストをサポートする仕事をしていますが、アーティストって、やはりとても大変だと思うのです。アーティストには3つのタイプがあると思います。一つ目は食事をするより絵を描く方が心地よいという生理的タイプ、二つ目は徹底的に思考し、テーマを掘り下げる哲学的タイプ、三つ目は常に流行を見ながら自分のスタイルをつくっていくタイプ。でも大成し、生き残ることができるのは最初の二つのタイプしかいない。中途半端だったら、やめた方がよいかもしれません。

先述したように、私自身はアーティストになれなくてよかった、と思っています。裏方にまわることで、時代と関りながら、より広い世界を知ることができた気がします。中国で仕事をしたり、外国のアーティストの仕事も手伝うこともでき、人生としてはいろいろな体験ができてよかったです。美術は知れば知るほど知りたくなる、夢中になれる世界なのです。

奥野惠
アートフロントギャラリー

代表取締役社長

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