コロナ禍に垣間見えた可能性
2020年は、年頭から新型コロナウィルスが話題になり、3月にはパンデミック、それからの約3か月の間、人々はほとんど外出できない状態が続きました。私自身は会社に歩いて出勤していましたが、アートフロントギャラリーのかなりのスタッフはリモート勤務となりました。
コロナウィルスについては去年の暮れから表面化していたので、私はその頃から今年開催予定の3つの芸術祭をどうするかについて考え始め、それぞれを同規模でほぼ一年後にずらして開催するためのやり取りを実行委員会と行っていました。
アートもまた文化産業の一端であり、壊滅的な危機にさらされることは目に見えていました。食べていくためにどうするか、芸術祭の灯を絶やさないためにどうするかを、全力で考え、活動してきたと言えるでしょう。
移動制限が解除されてからは、芸術祭のそれぞれの地元にできるだけ行っています。作品をつくることを通して、地域の将来の展望をつくりたいと思っています。
移動制限、自粛解除が恣意的に繰り返され、政府の要請にも説得力がなくなっています。こうした状況のなか、田舎は排他的にならざるを得ない。東京からは来ないでほしい、という事情もわかります。一方で、都市に住む多くの人たちが、越後妻有や瀬戸内に行って過ごしたい、住みたいという気持ちが高まっているのは事実です。これまで都市と地域との交流、交歓を目指してきた地域にとっては、いいチャンスなのです。実際、NPO越後妻有里山協働機構への入社希望は大幅に増えました。特に首都圏からの希望が多い。コロナ禍の中で始めた「北川フラム塾 地域芸術祭のつくられ方」にも、自分たちの場所での実践のために勉強しようというやる気のある人たちが全国から参加しています。
あらためて問われる自然と人間の関係
パンデミックは、自然と人間との関係をあらためて考える機会となりました。所与の自然に対し、人間もまた自然の一部であり、自分の中に自然をもっています。生命誌研究者の中村桂子さんは、自然と向き合う日常のなかに、育児、料理、園芸、山歩きと共に絵画(アート)をあげられていますが、生活の中の自然を大切にし、寄り添っていこうという人が増えてきていることを感じます。個人のレベルでも、社会や企業のレベルでも、そうした志向は大きくなっています。ワーケーションもまたそうした中でとらえることができます。
来年は、延期となった「房総里山芸術祭 いちはらアート×ミックス」「北アルプス国際芸術祭」「奥能登国際芸術祭」に加え、もともと開催予定だった第8回となる「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」が予定されています。それぞれ実行委員会が覚悟を決めているので、実現することはできるでしょう。しかし今までのような形では難しいと思います。美術館ではヴァーチャルで作品を見せるなど、オンラインを使った取り組みが行われていますが、なかなかうまくはいかないでしょう。アート本来の面白さは、ヴァーチャルでは伝えられないのではないでしょうか。
人間が豊かな感覚をもって生きるために
私がディレクターをつとめるクラブヒルサイドでは今年、「宇沢弘文を読む―社会的共通資本から現代の課題を考える」というセミナーシリーズを開催してきました。世界的経済学者・宇沢弘文(1928-2014)が提唱した「社会的共通資本」が今、注目を集めているのは、資本主義が行き詰まりを見せ、コロナ禍によって社会的インフラの脆弱さが露わになるなかで、必然であると言えます。宇沢は、生産性を高めないと豊かにはならない、しかしその豊かさをいかに配分し、人々の豊かさに還元するかを考えた人でした。そのための装置が「社会的共通資本」であり、宇沢は自然環境(大気、水、森林、河川、海洋、土壌等)、社会的インフラストラクチュア(道路、交通機関、上下水道、電力・ガス等)、制度資本(教育、医療、金融、司法、行政等)の3つを大きな範疇としました。
宇沢はアメリカの経済学者ソースティン・ウェブレン(1857-1929)に影響を受け、「分権的市場経済制度が円滑に機能し、実質的所得分配が安定的となる」制度主義を具体化しようとしました。ウェブレンの思想は、アメリカの哲学者ジョン・デューイ(1859-1952)のプラグマティズムと共振し、さらには18世紀のイギリスに生きたアダム・スミスに遡ります。社会的共通資本とは、「人間が人間らしい生活を営むために重要な役割を果たすものであって、官僚的基準によって管理されたり、利潤追求の対象として市場的基準によって支配されてはならない」と宇沢は述べています。宇沢は、生み出された富を公平に分配することによって、人間が豊かな感覚をもって生きることに寄与するものとして経済学を考え、社会的共通資本を唱えたのです。そのような社会的共通資本のひとつとして、アートを考えることはできないか、と思うのです。
アートは「社会的共通資本」になりうるか
アートの歴史を振り返れば、寺院などの宗教施設の壁や祭壇のためにつくられたものや、宮殿の装飾であったものが、タブローとなり、やがて市民革命の時代を経て、社会が民主化されると、アート作品はギャラリーや美術館で展示され、多くの人々が見に行けるものになった経緯があります。
アートフロントギャラリーは、1枚の版画を売ることからその活動を出発し、「見る」だけではない、「買う」ことを通してアートとの共犯関係を創り出し、アートを暮らしの中に息づかせたいと願いました。やがてそれは絵の販売、展覧会、パブリックアート、そして芸術祭へと広がっていきました。アートをより開かれた場へと展開し、五感と感応するアートの面白さ、豊かさをより多くの人に知ってほしい、体感してほしいというのが私たちの願いです。そして今、あらためてアートとは何かを根源的に考えたいと思うのです。オークションやアートフェアなどのマーケットでの価値では測り知れないアートの価値とは何か。希少価値、あるいは啓蒙ではないアートのあり方とは何か。絵の売り方、再開発でのパブリックアート、インテリアにおけるアート、私たちが関わるアートのひとつひとつを検証していきたいと思います。
地域芸術祭では、アートをつくるために、地元の人たちと協働しながら、空家や廃校等の施設を使ってきました。それはかなりの数にのぼり、維持するのは大変で、私たちだけでは担いきれない状況です。でも、外部の人や移住者、そして地域の中からもそれを共に担おうという動きが出始めています。そこに社会的共通資本としてのアートの萌芽があるのではないでしょうか。
アルタミラ、ラスコーの洞窟壁画、あるいは神護寺の薬師如来、サモトラケのニケが依拠していた共同性。アートの作品のひとつひとつは個人の修練によるものです。しかしそれは人間の共同社会に依拠しています。そこに少しでも近づくようなアートのあり方を求めていきたいと思うのです。
この年の終わり、そして新しい年に向けた夢想を語りました。
2020年12月 北川フラム
クラブヒルサイドセミナー「宇沢弘文を読む」第4回
北川フラム「社会的共通資本としてのアート」
2021年1月19日(火)19:00-20:30
会場・オンライン参加受付中