アートフロントギャラリーは、美術を開発事業、生活空間のなかに活かすために、多くのアーティストと協働してきました。美術館やギャラリーではなく、様々な条件のもとで、不特定多数が見、関わる作品をつくることは、アーティストにとっても私たちにとってもチャレンジであり、場所と人、人と人をつなぐアートの意味があらためて問われることになります。私たちと共に歩んでくれた、そんなアーティストのひとりに昨年8月に亡くなられた田中信太郎さんがいます。
田中信太郎展「風景は垂直にやってくる」(8月8日~10月18日)が市原湖畔美術館で開催されるにあたり、1960年代から田中信太郎さんと親交があった建築家・原広司さんに、田中さんの作品、二人が出会った1960年代という時代、そしてアーティストと仕事をする理由について語っていただきました。
――原さんは1936年、田中さんは1940年生まれ。ほぼ同世代です。お二人の出会いについて話していただけますか。
原:1966年の「空間から環境へ」展(注)が初めての出会いですね。美術評論家の東野芳明さんがキュレーターをつとめていて、彼が将来性があると思って選んだ人の中に、宇佐美圭司や田中さん、そして僕もいた。東野さんは素潜りが好きで、みんなで八丈島に魚とりに行ったりもしました。東野さんは素敵な人で、いろいろな分野の人々を引き合わせてくれて、彼がいなくなったのは非常に残念なことでした。彼のような役割を果たした人が我々の世代にはいるかなあ。
――「空間から環境へ」展は美術、デザイン、建築、写真、音楽など、横断的な取り組みでした。1960年代は多様な人々の出会いや協働が生まれ、元気で、生き生きした時代のように思えます。
原:そう、生き生きしていた。でも、日本の歴史を振り返ってみると、1200年代、平安時代が終わろうとしていた、あるいは終わったばかりのあの頃、鴨長明(1155-1216)、藤原定家(1162-1241)、道元(1200-1253)という3人が同時に生きていた、信じられないようなすごい時代があったのです。その頃と比べたら、とても勝てない。それでも、60年代はそんなに悪いわけではない。私たちが生まれてくる頃までに、実際には今になって明らかになることですが、世界はある程度整理されており、始まりの気運があった。ナイーブな感覚や多様な可能態がありましたね。「非ず非ず」と弁証法の両方が存在していた。ひとつのことが正しいという問題の立て方ではなく、二つのものがだぶって見えていた。何をやっても無意味かもしれない。でも、あるひとつのことを確信して体系を、あるいは物語をつくろうとしていたと思うんですね。同世代でいうと、大江健三郎さんがいい例です。「個人的な体験」(1964)以来、彼は自分で装置をつくって、同じパターンを繰り返しながらずっと書いていった。そのかたくなさがすごいのです。田中さんもそういうアーティストだったのではないでしょうか。
――田中さんの印象はいかがでしたか。
原:田中さんは美術大学を卒業していませんよね。我々の世代は、大学には行かずに芸術家になった人と、そうでない人が一緒になって存在していた。前者には武満徹、谷川俊太郎、宇佐美圭司、あるいは粟津潔といった人たちがいて、例えば武満さんは、その佇まい、立っているだけで芸術家という空気をもっていました。田中さんもそういう類の人でしょうね。彼は、垂直に立っていた。そして垂直であることを一生追い続けたのではないか、と思うのです。人間は垂直に立つことは難しい、と神は言っている。建築も垂直に建てることが基本だが、建築では、重力が作用する方向を意味する「鉛直」という言葉を使うわけですが、重力からいかに解放されるのかというのが建築の基本です。建築は不安定な状態のままだと壊れてしまうわけで、垂直、鉛直は建築の基本的原理であり、課題です。田中さんは“やじろべえ″のような不安定さをもった作品をつくり続けたが、それは垂直にならなければいけないという不安を放棄したうえで、安定しているバランスをとる作品をつくり続けた。不安定な状態からあるべき形におさまる。彼の美学の基本は、矛盾のさなかで、またそれだからこそ、人間はまっすぐに立ってないといけない、そういう状態の持続ではなかったかと思いますね。そこに彼の作品の普遍的な意味があるのではないでしょうか。
2001年には、札幌ドームのアプローチに「北空の最弱音(ピアニッシモ)」という作品をつくってもらいました。モビールのとてもいい作品です。その前年に越後妻有につくられた赤とんぼもいいですね。
――田中さんは、コミッションワークもたくさんやっていらして、実にクォリティの高いお仕事を残され、最期まで作品を作り続けていらっしゃいました。
原:外からは、同じことを繰り返しているように見えても、歴史を信じて、歴史を共有しているんだという意識をもっていないと、どうでもいいや、となってしまうわけですね。人間は迷う存在。アーティストって迷うもの。
――原先生はアーティストとのお仕事多いですよね。建築家には、建築を作品として完結させてしまう方も多いですが、原先生の建物にはアートが関わっているものが少なくありません。最初の事例は、アートフロントギャラリーも関わらせていただいた梅田スカイビル(1993)ですか。田中さんの作品も設置されています。
原:そうですね。アートを入れようというのは僕が考えたということもありますが、梅田については施主の積水ハウスの考え方の中にもあったのだと思います。建築家は、いつも怯えている存在です。地震があって物が落っこちてきたらどうしよう、崩れたらどうしよう、生命を脅かすことになったらどうしよう、といつも緊張していなくちゃいけない。責任があるのです。ところが、チームを組んで、責任が個人にかからないようにすると、思いあがってしまう。アーティストはそんなに緊張していないし、不安におびえながら生きてはいない。でも、責任は個人でとるわけです。チームでやることもあるかもしれないけど、ひとりで立っている。結局、ひとりひとりの行動が歴史に現れてくるわけです。アーティストはちゃんと立っている人たち。だから気が合うんです。建築家は世界の理解の仕方が浅い。謙虚になるはずなのに傲慢です。自分とは比較しえないぐらいすごい人が芸術や科学や数学の世界にはいるのに、それがわからない。1200年代にあの3人がいたこと。そしてサルトル、カミュ、すごい人たちがいた1960年代のあの緊張。最近亡くなったクリストはわかりやすいけれど、いいコンピューターの頭をもっていた。ジョゼフ・コスースもとても頭がいい。田中さんもわかりやすい。彼は、磁石とやじろべえ、この世の中にはそれしかない、と感性を抑えて原理を信じて繰り返しつくっていったのだと思います。そこにすごさがあるのです。
代官山のアートフロントギャラリーでは「田中信太郎 作品展」を9月11日から10月11日まで開催。
注:「空間から環境へ」展は1966年11月11日から16日まで銀座・松屋デパート8階で開催された。美術、デザイン、建築、写真、音楽の分野から38名が参加し、わずか6日間で35,000人の入場者があったと言われる。
原広司 建築家、東京大学名誉教授。
1936年川崎生まれ。70〜98年設計活動をアトリエ・ファイ建築研究所と協同。99年原広司+アトリエ・ファイ建築研究所に改名。2001年ウルグアイ国立大学Profesor Ad Honorem。主な作品に「田崎美術館」「ヤマトインターナショナル」「梅田スカイビル」「JR京都駅」「内子町立大瀬中学校」「札幌ドーム」。主著に『建築に何が可能か』(1967年)『空間〈機能から様相へ〉』(1987年)、『集落への旅』(1987年)、『DISCRETE CITY』(2004年)。